修論からの逃避

くだらない考えごとは捗るのに、修論は捗りません

人と話すときは「主語」を忘れない - Yくんと飲み会とLGBT

先日、友人3人とドライブをしていたときのこと。

渋滞につかまってしまって、たわいもない話をしていたら、ふと、共通の知人Yくんの話題になった。

Yくんは仕事もできて、とても素敵なひと。そういう男の子の話になると、しぜん「彼女の有無」を確認してしまうのが女という生き物で…

 

「Yくんて、彼女いたことないって聞いた」とKさん。

「ああ、そうなんですね」とわたし。

「……うーん、Yくん、ゲイなんじゃないかな。というか本人がそういう風に(言ってた)」とOさん。

 

つまり、彼女はいたことないけど、彼氏ならいる、ということらしい。

そしてわたしはこの時、初めてアウティングというのを体験した。

 

Oさんが私たちに話してしまったのは、YくんとOさんが入っている、また別のコミュニティではかなりオープンにしているから、とのことだった。

だからといって彼は、私たちのいるコミュニティではゲイであることを知られたくないようだったから、彼女の行為は許されないと思う。でも、そのことは今回置いといて。

 

わたしがそこで思ったのは、「ああ一体いままで、何人のセクシャルマイノリティを傷つけてきたのだろう」ということだった。

 

たとえば、わたしはきっと飲み会の席で彼を困らせるようなことをたくさん言ったと思う。

「好きな女の子のタイプは?」

「好きな女性芸能人は?」

「Yくん、かっこいいから女の子にモテるでしょ」。

 

私自身は恋愛が苦手なので、こういう類の話をするのは全く好きじゃない。

でも20代前半の若者ばかりが集まったときって、

「はいはい、君たちこんな話題でしか盛り上がれないんでしょ」

という感じで若干軽蔑しながら、しぶしぶ話題を提供してきたのだ。

 

今回なにが一番ショックだったって、わたしのなかでYくんってそれくらい「ふつうの若者」ってことだった。「こんな話題」で楽しめる人なんだって、勝手に決めつけていた。

 

LGBTってほんとに、もっとどこか遠い存在だと思っていた。そんでもって自分は、差別や排除なんて絶対しない、理解ある人間なんだって思ってた。

 

社会学者・好井裕明先生は、差別、排除の問題を考えるときに大事なのは「差別-被差別という硬直した二分法をまずカッコにいれること」で、「〈わたし〉が生きて在る日常がどのように世の中に立ち現れる差別や排除とつながっているのか」を考えること、だという。

 

つまり、私たちのなかには必ず差別の感情があることを認識すべき、ということだ。

LGBTの割合は13人に1人(たしか)。当たり前だけど「ふつうの若者」のなかにも存在する。そして会社にも、学校にも、飲み会にも彼らはいる。わたしはそれを全く理解していなかった。

 

Yくんの一件で痛感したのは、あんまりセクシャリティが限定される話はしないこと(下ネタとか、異性のタイプとか)。ポリコレ、ポリコレっていうけど、ポリコレってまじ大切。

 

これって結局、人と話すときは「主語」を忘れないってことなんじゃないかなって思います。つまり、「自分はどうなのか、自分はどう思うのか」ってことをまず初めに話す。

 

「相手もきっとそうだろう」「みんなはきっとそう思ってる」という前提だと、やっぱり誰かを傷つけるんですね。

 

少なくともわたしは、これから他者と対話するとき自分の話から始めようと誓ったし、そうすることでもっと多様な人に出会えるようになるのかな、とも思った。