【雨宮まみさん】「女」という字が上手く書けない
「女」 という字が上手く書けない。
小学生のころから習字教室に通っており、その週の課題のなかに、「女」および女へんが入っている度に嫌な思いをしていた。
何度書いても、「くノ一」を囲んでできる、平行四辺形の穴がきれいに書けない。
どうしても「く」の角度がしっくりこないし、ノを短くしてしまいがちだし、一のフタをだいぶ上で閉めてしまって、どう頑張っても不恰好になってしまう。
先生が書いてくれたお手本をじっとみつめていると、あの平行四辺形の穴が半紙を突き破って、無限の闇が広がっている気がした。
一体、女ってなんなのだ。
先日、作家の雨宮まみさんが亡くなった。
いろんな方がいろんなお悔みのコメントを出されているけど、わたしは単なる読者にすぎないので、なんだかまだピンとこない。
これは大好きなマンガの連載が終わってしまったときみたいな感覚に近い。ああ、もう文章のなかで四苦八苦するまみさんに会えないんだなあ、という虚しさがある。
『女子をこじらせて』(幻冬舎)を読んだときのあの気持ちは一生忘れられないと思う。病名を言い当ててもらったみたいな、複雑な、でもスッキリした気持ちだった。
わたしの生きにくさって、「女が似合っていない」ところから来ているんだ、とやけに納得した記憶がある。
わたしは、顔もスタイルも大してよくないのに、女でいることが恥ずかしくて居心地が悪くて、恋愛をすることはズルいことだとずっと思ってきた。
だからサークルでもゼミでもバイト先でも、わざと圏外キャラを演じてきた。
いつのまにかそのことが当たり前になってしまって、3年も好きだった人に、いちども気持ちが言えなかった。その人のなかでずっと、わたしは友だちでしかなかった。
その一方で、自分はそう思われて当然だとも思っていた。傷ついてないフリをしていたけど、そのことが私の自尊心をボロボロにした。
『女子をこじらせて』を読んだのはそんな時だった。
私とおなじように、自意識のなかで身動きが取れなくなっている若き日のまみさんを見て、他人とは思えなかった。孤独から救われた気がした。
そんな自分を、まみさんを、楽にしてあげたい。もう少しくらい自分を許してあげてもいいんじゃないか、そう思えたときから、少しずつ状況は良くなっていった。
今は、自意識の縄を少しだけゆるめて、同い年の女の子のように、ファッションやメイクを楽しめるようになった。
(試着室でふと我に返って悶絶したりしてるけど)前よりはずいぶんマシだ。
それでもうまくいかなかったり、人に笑われたりして、死にたくなる夜もあるけど、ぐっとこらえて殺人的にまぶしい朝日を妙に冷めた目で見つめたりしている。そんな時、
ああ、まみさんの文章をもっと読みたかったな、と思ってしまうのだった。
女をこじらせすぎて死んでしまった(過労死と言われているけど)まみさんの、エッセイがのどから手が出るほど読みたい。でもそれはかなわないし、自分もそうならないように生きていくしかない。
彼女は死ぬ直前、幸せだったのだろうか。
せめて、自分のことを人並みに愛せるようになったのだろうか。
そうだったら、嬉しい。
私はというと、相変わらず「女」という文字が上手く書けない。
そもそも、この世にこの文字を美しく書ける人など存在しないのではないか、とすら思えてきた。
もともと人の文字を観察する性癖があるのだが、よく注意してみていると、どんな人も太すぎたり細すぎたり、妙に縮んでいたり、縦に伸びていたりと「なーんかヘンな感じ」なのだ。
というか、私が強く思い描いていた「理想の女」なんて誰が書けるんだろう。自分の頭の中だけにあった気もするのだった。