朝井リョウの結婚と「人間童貞」について
朝井リョウが結婚した(していた)。
自分は好きな有名人が一般女性と結婚したとき、「わたしじゃなかった…」と思ってしまうような自惚れ屋さんなので、そこそこ悲しかった。
わたしも「配偶者」というあの冷たい響きで呼ばれたかったし、「この人となら手を取り合ってこの世の中を戦っていける」と思われたかった………
結婚について語る場面はやはり彼らしくてうるせーうるせーと思ったけど、「ああ、やっぱりこの人素晴らしいな」と思ったのは、「人間童貞」のくだりだった。
彼いわく、童貞とは「状態」のことであって、たとえ性行為が未経験であっても、感情や欲望の全てをさらけ出せる相手がいるならば、その人は「人間童貞」ではないのだと。
そして、自分は「配偶者」と出会って「人間童貞」を卒業したのだと言っていた。
これを聞いて涙がでてしまった。
多くの人が恋人や結婚といった「形」にこだわるけど、本当に欲しいのは、ただ自分を開いていけるような関係性なのだと思った。
もれなく私もその1人で、本当は人にうまく触れたいだけだったんだな。わたし、まだ全然「人間処女」だわ……。
そしてこういうことをここまでクリアに説明できる人は朝井リョウの他にいないな〜〜と思った。
一生この人の説明を聞いていたい。高みなとのコンビも好きだけど、ピンでラジオやってくれないかなあ。
テンプレな女の幸せにうんざり
26歳の姉が、出会って2ヶ月、付き合って1ヶ月半の彼氏と同棲すると言い出した。
さすがに心配なので、理由を聞いたら、
「結婚できない相手と付き合っていても意味がないから早く白黒つけたい」とか、
「30過ぎてモテなくなったら終わりだから、時間を無駄にしたくない」とか、そんなことを言っていた。
ちょっとあまりにも、世の中にはびこる典型的な「女の幸せ」に人生を振り回されすぎじゃないか。
「プラダを着た悪魔」と「キューティーブロンド」が好きな彼女なのに、どうしてやってることが田舎のヤンキーみたいなんだろう。
「モテる」と「愛される」だけが全てじゃないと頭では分かっていながら、行動の範疇がすべてそこに収まるように自分で自分を縛ってる。
どうしてもっと、いろんな人生を想像できないのだろう。
「一緒に頑張れる人が欲しいの」と言っていたけど、1人で生きていくことだって十分尊いことなんだよ。
もしかしたら、あなただって1人で頑張れるだけの能力や可能性があるかもしれないんだよ。
彼女にとっての「幸せの価値基準」が一つしかなくて、聞いていてしんどくなった。
人と話すときは「主語」を忘れない - Yくんと飲み会とLGBT
先日、友人3人とドライブをしていたときのこと。
渋滞につかまってしまって、たわいもない話をしていたら、ふと、共通の知人Yくんの話題になった。
Yくんは仕事もできて、とても素敵なひと。そういう男の子の話になると、しぜん「彼女の有無」を確認してしまうのが女という生き物で…
「Yくんて、彼女いたことないって聞いた」とKさん。
「ああ、そうなんですね」とわたし。
「……うーん、Yくん、ゲイなんじゃないかな。というか本人がそういう風に(言ってた)」とOさん。
つまり、彼女はいたことないけど、彼氏ならいる、ということらしい。
そしてわたしはこの時、初めてアウティングというのを体験した。
Oさんが私たちに話してしまったのは、YくんとOさんが入っている、また別のコミュニティではかなりオープンにしているから、とのことだった。
だからといって彼は、私たちのいるコミュニティではゲイであることを知られたくないようだったから、彼女の行為は許されないと思う。でも、そのことは今回置いといて。
わたしがそこで思ったのは、「ああ一体いままで、何人のセクシャルマイノリティを傷つけてきたのだろう」ということだった。
たとえば、わたしはきっと飲み会の席で彼を困らせるようなことをたくさん言ったと思う。
「好きな女の子のタイプは?」
「好きな女性芸能人は?」
「Yくん、かっこいいから女の子にモテるでしょ」。
私自身は恋愛が苦手なので、こういう類の話をするのは全く好きじゃない。
でも20代前半の若者ばかりが集まったときって、
「はいはい、君たちこんな話題でしか盛り上がれないんでしょ」
という感じで若干軽蔑しながら、しぶしぶ話題を提供してきたのだ。
今回なにが一番ショックだったって、わたしのなかでYくんってそれくらい「ふつうの若者」ってことだった。「こんな話題」で楽しめる人なんだって、勝手に決めつけていた。
LGBTってほんとに、もっとどこか遠い存在だと思っていた。そんでもって自分は、差別や排除なんて絶対しない、理解ある人間なんだって思ってた。
社会学者・好井裕明先生は、差別、排除の問題を考えるときに大事なのは「差別-被差別という硬直した二分法をまずカッコにいれること」で、「〈わたし〉が生きて在る日常がどのように世の中に立ち現れる差別や排除とつながっているのか」を考えること、だという。
つまり、私たちのなかには必ず差別の感情があることを認識すべき、ということだ。
LGBTの割合は13人に1人(たしか)。当たり前だけど「ふつうの若者」のなかにも存在する。そして会社にも、学校にも、飲み会にも彼らはいる。わたしはそれを全く理解していなかった。
Yくんの一件で痛感したのは、あんまりセクシャリティが限定される話はしないこと(下ネタとか、異性のタイプとか)。ポリコレ、ポリコレっていうけど、ポリコレってまじ大切。
これって結局、人と話すときは「主語」を忘れないってことなんじゃないかなって思います。つまり、「自分はどうなのか、自分はどう思うのか」ってことをまず初めに話す。
「相手もきっとそうだろう」「みんなはきっとそう思ってる」という前提だと、やっぱり誰かを傷つけるんですね。
少なくともわたしは、これから他者と対話するとき自分の話から始めようと誓ったし、そうすることでもっと多様な人に出会えるようになるのかな、とも思った。
【逃げ恥】星野源が語る、「平匡さん拒否事件」の意味深さ(第7話)
※2016年11月28日放送「星野源のオールナイトニッポン」の書き起こしを元に書いています。
■賛否両論の「平匡さん拒否事件」(=第7話エンディング)とは
新婚旅行以来ギクシャクしていたもののなんとか乗り越え、ついに距離がぐっと縮まった二人。ソファで並んでワインを飲みつつ、いい雰囲気になり2度目のキス。
そして、みくりちゃんがこんなことを言います。
「いいですよ、そういうことしても。平匡さんとなら」
キスはもう2回目。つまりは「その先に進んでもいい」ということでしょう
それに対して平匡さんは
「む、無理です。そういうことをしたいのではありません。無理です。ごめんなさい」
と拒否してしまいます。
■「星野源ANN」に平匡さんへの怒りのメールが寄せられた
「ぐおおおおお!!何やってんだ!!おおおおお!!!!」
「もう、平匡さんのバカ!!!!」
うーん…。
35年間女性経験がなかった平匡さんにとってはいきなりハードルが高すぎるよな~~と思いますし、しかし一方でみくりちゃんも、ちゃんと言葉で「好き」と言ってないのに突っ走ってしまったかな…という印象もあります。
どちらも悪くないだけにとても悲しいシーンでした。ちなみにわたしは泣いた。どうしようもなかったんだ、みくりちゃんも平匡さんも……
■星野源「いかにみんなが男と女というレッテルに縛られているかの証明」
この平匡さんへの怒りメールに対する源さんの考えがこちら。
星野「このシーンって男女を反転すると、感じ方が変わるんです。全然怒る気持ちにならない。今まで彼氏がいたことがなくて、そういう経験がない女性に対して、男性が「いいですよ、あなたとなら。しても」って言ったときに感じる感情って全然違うじゃないですか。怒りじゃない。それで拒否してもまったく怒る気にならない。「そりゃしょうがないよね」ってなる。でも男になっただけで、「おまえしっかりしろよ」って言われるってことはそれは、いかにみんなが男と女というレッテルに縛られているかということの証明なんですよね」
源さんってたまに、こういう鋭いことをサラッとといいますよね。
いま社会でも「男らしさ」に追いつめられる男性が問題になっています。フェミニズム運動が行くところまで行ったのに対して、「男性性」に関する言及ってまだまだ少ないんですよね。
源さんはそんな空気を肌で感じ取っているんでしょう。やっぱ感性の人だな~~と思わずにはいられません。
■このドラマ、実は登場人物全員が「レッテル」に苦しんでいる
かくいう私もこれを聞いて、ハッとしました。このドラマって「契約結婚」だけがテーマだけじゃないんだ!と。
そう、実は「逃げ恥」って登場人物全員が、「社会から勝手に与えられたイメージ」に苦しんでいるんです。
沼田さん(古田新太)→ゲイという性的少数者であるがゆえに、疎外感を感じたり、「男だったら誰でもいい」という偏見を持たれてしまいがち。
百合ちゃん(石田ゆりこ)→アラフィフで未婚かつノンママ(子どもがいない)。化粧品会社の広報としてバリバリ仕事をこなす姿はかっこいい!が、やはり「女としての幸せ」を周囲から押し付けられている。本人はもう吹っ切っているようだが、「中年女性のひとり身=孤独」だと思われることにしばしば怒りを感じている。
風見さん(大谷亮平)→文句なしのハイスペックイケメンで、一見悩みはなさそうだが、イケメンであるがゆえに同性からは嫉妬され、女性からは警戒されがち。何を言っても「イケメンはいいよな~」で済まされてしまう。
なかでも、高齢女性の未婚やLGBTの問題はなかなかデリケート。にも関わらず、この問題を軽やかに表現していることはこのドラマの評価すべき点とも言えるでしょう。
■「どうして人はレッテルを貼ってしまうんでしょう」
ところで第7話には、この「レッテル問題」への示唆に富んだシーンが登場します。
「自分が決めつけられるのは嫌なくせに、どうして人はレッテルを張ってしまうんでしょう」
平匡さんはそれまで、ゲイである沼田さんは「男性と女性の視点どっちも持っているから、鋭い(契約結婚に気づいてしまう)のではないか」と勝手に警戒していました。
それに対して、同僚が「いや、違うと思いますよ」「沼田さんは、沼田頼綱っていう生き物だからね」と何気なく諭すのです。
このセリフは社会におけるレッテル・偏見に向けられたメッセージであり、視聴者にとってもここは考えさせられたシーンだと思います。
■星野源が語る第7話の面白さ
この平匡さんの気付きは、第7話の中盤に登場します。「平匡さん拒否事件」の前です。
つまり第7話って、「レッテルはよくない」という前フリがあるのに、悲しいかなそのすぐ直後に、今度は視聴者が平匡さんに「男ならちゃんとしろ」というレッテル貼りをしてしまっている、という皮肉な回なんです。
ここに、第7話の面白さが詰まっていると源さんは言っています。
星野「このセリフがありながら、この後の平匡が拒否するというエンディングに、視聴者が怒っている。「男なのに何やってるんだ」と。
それって、平匡なり、みくりなりが、ずーっと苦しんできた、「男に生まれたから」「女に生まれたから」っていうレッテル、そういうものとまったく一緒なんですよね。
で、なぜみんながこんなに苦しんでるのか、っていう一番大事なところを、今度は視聴者が思ってしまうところが、このエンディングのすごく面白いところだなと思ったんです。」
うーん源さん、裏を読みまくってるな~~ww
確かに、このドラマは、登場人物がレッテルに苦しむ姿を繰り返し描いてきました。その度に視聴者は無理解な社会に対して一緒に怒ってきたはずなんです。
それなのに、「平匡さん拒否事件」で視聴者はあっさりと社会の側、つまり偏見を抱く側に回ってしまってるんですね。
さらに一歩踏み込んだ解釈をすれば、この回は「偏見はよくない」というお手本をあらかじめ示しておきながら、そのあとに視聴者が本当に理解できているかを試している、ともいえます。
もちろん私はまんまと引っかかりました。平匡さんの男気のなさに怒り、みくりちゃんかわいそう、と思った一人です。でも、よくよく考えたらこういう状況で男性が拒否する権利があってもいいわけですよね。
源さん「だから出演者が苦しんでいることの理由は、怒っている視聴者たちの心の中にあるんです。そこがこのエンディングのすごく面白いところです。」
■最後に
源さんはこんなことも言っていました。
星野「みんな苦しんでるんだけど、前向きになんとか頑張っているっていうのがこのドラマのすごく素敵なところ」
確かに、このドラマって登場人物って、無性に応援したくなりませんか?
「男だから」「女だから」「夫婦だから」というレッテルは私たちも日常的に感じていることで、それを知恵と努力で克服しようと頑張るみくりちゃん、平匡さんに、わたしたちは「ムズキュン」しているのでしょう。
【雨宮まみさん】「女」という字が上手く書けない
「女」 という字が上手く書けない。
小学生のころから習字教室に通っており、その週の課題のなかに、「女」および女へんが入っている度に嫌な思いをしていた。
何度書いても、「くノ一」を囲んでできる、平行四辺形の穴がきれいに書けない。
どうしても「く」の角度がしっくりこないし、ノを短くしてしまいがちだし、一のフタをだいぶ上で閉めてしまって、どう頑張っても不恰好になってしまう。
先生が書いてくれたお手本をじっとみつめていると、あの平行四辺形の穴が半紙を突き破って、無限の闇が広がっている気がした。
一体、女ってなんなのだ。
先日、作家の雨宮まみさんが亡くなった。
いろんな方がいろんなお悔みのコメントを出されているけど、わたしは単なる読者にすぎないので、なんだかまだピンとこない。
これは大好きなマンガの連載が終わってしまったときみたいな感覚に近い。ああ、もう文章のなかで四苦八苦するまみさんに会えないんだなあ、という虚しさがある。
『女子をこじらせて』(幻冬舎)を読んだときのあの気持ちは一生忘れられないと思う。病名を言い当ててもらったみたいな、複雑な、でもスッキリした気持ちだった。
わたしの生きにくさって、「女が似合っていない」ところから来ているんだ、とやけに納得した記憶がある。
わたしは、顔もスタイルも大してよくないのに、女でいることが恥ずかしくて居心地が悪くて、恋愛をすることはズルいことだとずっと思ってきた。
だからサークルでもゼミでもバイト先でも、わざと圏外キャラを演じてきた。
いつのまにかそのことが当たり前になってしまって、3年も好きだった人に、いちども気持ちが言えなかった。その人のなかでずっと、わたしは友だちでしかなかった。
その一方で、自分はそう思われて当然だとも思っていた。傷ついてないフリをしていたけど、そのことが私の自尊心をボロボロにした。
『女子をこじらせて』を読んだのはそんな時だった。
私とおなじように、自意識のなかで身動きが取れなくなっている若き日のまみさんを見て、他人とは思えなかった。孤独から救われた気がした。
そんな自分を、まみさんを、楽にしてあげたい。もう少しくらい自分を許してあげてもいいんじゃないか、そう思えたときから、少しずつ状況は良くなっていった。
今は、自意識の縄を少しだけゆるめて、同い年の女の子のように、ファッションやメイクを楽しめるようになった。
(試着室でふと我に返って悶絶したりしてるけど)前よりはずいぶんマシだ。
それでもうまくいかなかったり、人に笑われたりして、死にたくなる夜もあるけど、ぐっとこらえて殺人的にまぶしい朝日を妙に冷めた目で見つめたりしている。そんな時、
ああ、まみさんの文章をもっと読みたかったな、と思ってしまうのだった。
女をこじらせすぎて死んでしまった(過労死と言われているけど)まみさんの、エッセイがのどから手が出るほど読みたい。でもそれはかなわないし、自分もそうならないように生きていくしかない。
彼女は死ぬ直前、幸せだったのだろうか。
せめて、自分のことを人並みに愛せるようになったのだろうか。
そうだったら、嬉しい。
私はというと、相変わらず「女」という文字が上手く書けない。
そもそも、この世にこの文字を美しく書ける人など存在しないのではないか、とすら思えてきた。
もともと人の文字を観察する性癖があるのだが、よく注意してみていると、どんな人も太すぎたり細すぎたり、妙に縮んでいたり、縦に伸びていたりと「なーんかヘンな感じ」なのだ。
というか、私が強く思い描いていた「理想の女」なんて誰が書けるんだろう。自分の頭の中だけにあった気もするのだった。
星野源がただのサブカル男子ではないことを実感した話
先々週、10月24日放送の「星野源のオールナイトニッポン」を聴いていて、彼がここまで人気者になった理由が端的に表れているな、と思うトークがあったので紹介したいと思います。
というのも、現在大ブレーク中の源さんに対して「なんでアイツあんなに売れてんだ」と疑問に思う人が少なからずいると思うんですね。「サブカル方面に強そうだからじゃないの?」なんて意見もよく聞きますが、それは雑すぎませんか(笑)
たしかに、いちファンであるわたしもどうしてこんな騒ぎになっているのか事態が呑み込めないとこはあります(笑)なんでこんなに売れちゃったのよ?みたいな。ファンによくあるアレですねww
でも、ほんと、この放送を聴いて、やっぱり源さんは変わってないし、源さんなりのセオリーをもってして、売れたんだなというのがよくわかって嬉しかったので、みなさんにぜひ読んでもらいたいのです。あと、いま人生に悩んでる人も、元気でると思います。
以下、長いけど、書き起こしです。
自分に自信がない、というリスナーからの質問
「私は自分に自信がありません。人との関わりを避けてしまう、マイナス思考でネガティブな自分が大嫌いです。
だからこそ、源さんを見ていると本当に尊敬するし、そうなりたいと思います。なんで、源さんはそんなに元気で明るくて、何事にも一生懸命になれるんでしょうか?」
それにたいする星野源の答え
「自分は人より劣ってると思って生きてきた」
あ、おれそんなイメージですか?ありがとうございます。
でもそうだなあ、おれは20代後半くらいまで自分に自信が全くなかったですね。
たとえば、10代のときって、まあモテたいとか思うわけじゃないですか。でも自分の顔とか、スタイル、あとファッションセンスも、良いと思ったことは一度もないわけです。
たとえば朝、鏡で自分の顔を見て「変な顔だなあ」と憂鬱になりながら学校に行って、服を着ても「変な服だあ」と思って。「どうしたらファッションセンスってよくなるんだろう」みたいな。
親からも「あんたはブサイクだし、スタイルもよくないから、人の3倍努力しなさい」と言われながら育ってきたので、まあ自分に自信なんか持ちようがないわけです。自分というものが人より劣っているんだっていうふうに思ってずっと生きてきたので。
イケメンを憎んだ20代
するとそういう想いは悪い方向でルサンチマンみたいに溜まっていきます。それで、おれは20代のときどうしたかというと、まずイケメンを憎みました(笑)
そういうのって次はだいたい、「カッコいいものってさあ~…べつにかっこ悪いよね」みたいなことを言い出すじゃん(笑)早川義男さんのあの曲はいいと思うんだけど、それに影響されて言い出す、みたいな。
そういう、恥ずかしいことをやっていたわけです。で、なんか周りに悪いものをまき散らしていくわけ。
そうなったときに、当たり前なんだけど、やっぱり嫌われていくわけですよ。それでやっと「おれすごいかっこ悪いな」って気付くんです。
「俺も悪口言っていいんだ」は大間違い
でもそれに気付くのにもすごく時間がかかるんですよ。そういう人っていっぱいいるから。たとえば、カッコいい人にツッコんで、揚げ足とって、それで笑いを取る人ってラジオにもテレビにもいるし、しかもそれが自分の心を救ってくれる人だったりするわけだから。それがいいものだと思って「おれもやっていいんだ」って思っちゃうじゃん。
でもそれって大間違いだから。あの人たちは仕事でそれをやってるわけだから。でも実際、そういう人であればあるほど、素で会うと、すごくいい人なんですよ。そういうタレントさん、芸人さんって。
でね、仕事じゃなくて、素でそういうことをやってる人って、悪い人がどんどん溜まっていくから、悪いことしか起きないんですよ(笑)
かっこ悪いことを「頑張ってやらない」
それでやっと気づくんですね。だんだんだんだん、ちょっとずつ、ちょっとずつ。
そのとき僕は何を思ったかといいますと、カッコいいとかさ、自分に自信を持ったりとか、その、いい感じになるには、中身を良くしていくしかないということですよね。ほんと、そこしかないのよ。
「カッコよくなりたい!あの人みたいになりたい!」って思うんだけど、それになるには自分がカッコいいと思うことをするしかなくて。
あと、かっこ悪いことをしないっていうことしかないですよ。「これやったらかっこ悪いな、でもやりたくなっちゃうな」っていうことを頑張ってやらないっていう。ほんとにそれだけでいいんだと思うのよ。
でも「俺はこれを頑張ってる!」って言葉にしちゃだめなんだけど(笑)
かっこ悪いとか、これは恥ずかしいっていうのを頑張ってやらないっていうだけで、いい人が周りに増えていくから。そういうのって周りは気付きますから。
そういうのってね、その人の良さとなって、それによって顔が変わってくるんですよ。顔ってカッコよくはなれないんだけど、中身が変わることによってその人が変わるでしょ。で、その人が変わると、その、例えばブサイクだとしても「その人の顔が良い顔」という認識になっていくわけですよ。てなると、その顔がかっこよくなるわけ。造形は変わってないんだけど。
そうなると、いい人が周りに増えてきて、自然と自分に自信が持てると思います。
僕が、自分の中で、人より自信のあることは、周りに素敵な人がいることだと思います。ほんとにほんとにそれだと思います。僕の周りは素敵な人ばっかりなんですよ(笑)
だから、リスナーさんもちょっとずつやっていくのが良いのではないでしょうか。
これを聴いて、やっぱりわたしは源さんが好きだなと思いました。
源さんのことを「偽善者っぽい」っていう人がいるんですけど(たぶん「SUN」で売れたことも原因の一つだと思う)、ほんとに、それは違うんですよ。
「イケメンを憎んだ」とか「カッコいい人の悪口を言ってしまった」とか「自分も批評家ぶって誰かの悪口を言ってしまった」とか、誰にでもある、まっとうに汚い感情で。
そういうモヤモヤした気持ちを表現するのが本当に上手な人なんですよ。星野源は。それでいて、説教臭くなく、ばか素直にそれを消化していくんですよ。それが源さんの最大の魅力だなと思います。
そのうえで、彼は、売れるまですごく苦労してきたんだなと、この話を聞くとおもいませんか?「自分がかっこいいと思うことをするだけ」「カッコ悪いことを頑張ってしない」それって結構、大変です。彼は売れるべくして売れたんですね。
同時に、「人生うまくいかないからって腐ってるといつまでもそのままだよ!」っていうエールにも感じました
源さん、これからも応援してます。
オーガニック信者は「たまに食うラーメンうめえ」くらいは言ってほしい
お友だちのお姉さんの話がけっこうショッキングだったので、卒論を放棄(書け)してこっち書きます。
「一刻も早く東京を脱出したい」
私の友だちのお姉さんが、昨年女の子をご出産されたのだけど、相当なオーガニック信者で、それはそれはもうすごい熱の入れようだそうで。
まず、肌に触れるものはもちろんオーガニックコットンで、食べ物は基本産地直送。
まあ、そこまでは分かるんだけど、せっかく購入したマンションの建材が体に良くないとかで、売りに出しているんだそう。しかも東京は放射能に汚染されてるから、一刻も早くここを脱出して、地方に移住したいのだとか。
移住先もどこでもいいというわけではなく、牛乳とか上白糖を摂らせたくないないから、「学校給食の出ない地域」を探してるらしい。
どうよ、お姉さんの、この「オーガニック信者」っぷり。一緒に話を聞いていたほかの友人たちはドン引いていたのだけど、私はすこしだけなら分かるかなあ。と思った。
オーガニックにハマる心理
実は最近、私もオーガニックなものにハマり初めていて、少しずつだけどコスメとか集めている。きっかけは「SHIGETA」のBBクリームを使い始めたことだったんだけど、ただ体に悪い成分が入ってないってだけで、ものすっっっごい良いことした気持ちになるんだよね。なんつうか「今日は通勤の前に2駅分ウォーキングしちゃいました!」みたいな。だからまずは、そういう健康的な、偽善的な、気持ちよさに心が憑りつかれるんだろう。
でも実際、良い成分が入ってるから肌荒れはしなくなるんだよな。そうなると次は、悪者さがしをするようになる。私の場合は、パラベンとシリコン。「これのせいで私の肌は荒れたんだ、こいつらは絶対悪だ」。そうやって、今度はシャンプーをノンシリコンのものに、化粧品もパラベンフリーのものに替えていく。
私はまだその程度だけど、こうやってどんどんNGのものが増えていくんだと思う。
そして「今度これを使ったらまた悪くなるんじゃないか」という恐怖心。だからこれって、なんというか潔癖症と同じなんだよね。心なしか完璧主義者の人も多い気がする。
あと、これは強く言いたいんだけど、オーガニックって知識勝負なところがある。定義とか化学成分のこととか、いろいろ小難しい。それについて書かれた記事とか読むともう、、、すげえ賢くなった気がするのよ。だから、選民思想じゃないけど、少なくとも「私は知ってる」っていう優越感がね、また刺激するのよ。
そして最後。「全能感」。
これだけ消費者に膨大な選択肢が与えられている時代。みんながレビューやまとめサイトを気にしているなかで、自分には明確な基準がある。そして、これまで全く思い通りにならなかった自分の体が、消費行動一つ変えることで思い通りになる。それがたまらなく嬉しいのだと思う。
オーガニック信者は自己満
・偽善的な、気持ちよさに心が取りつかれる
・悪い物質に対して潔癖になる
・知識を得たことの優越感がたまらない
・自分の体は思い通りにできるという全能感
↑ここまでをざっとまとめた上で、思うのは、やっぱりオーガニック信者は自己満でしかないということ。
先述のお姉さんの話に立ち返ると、彼女はオーガニックなものを摂取することがかけがえのない幸せで、生きがいなわけだけど、それが目的になってしまったり、他人に強要するようになってるからよくない。健康になるためのあくまで手段であったらよかったよね。
子どもを守りたいという気持ちは素晴らしいし、そのためならしょうがないか~と思うんだけど。もうここまでいったら健康を通り越して不健全なんだよな。
というか、何より、これが一番いいたかったんだけど、その子の人生が最高に幸せかどうかは、オーガニックなものに囲まれることとニアリーイコールではない。あんまり「体にいいこと」に潔癖になっているとそこのところ見落とさないかなと、ほんとに、お節介だけど。
たまに食べるカップラーメンもうめえよな、、、くらいは言ってほしい。じゃなきゃどんどん孤高の人になっていく。それに人生ってそれくらい雑味があるものだと思うし。